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研究活動
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2026.09.02
【教員の研究活動】奈良大学文学部史学科の足立広明先生(西洋史)が国際学会(国際ビザンツ学会)にて研究報告をされました。
オーストリアの首都ウィーンで開催された第25回国際ビザンツ学会(8月24日―29日)で研究発表(同28日)を行ってきました。本学会は五年に一度開催されるビザンツの歴史や文化に関連する最も大きな国際学会で、ウィーンは2度目です。会場はドイツ語圏で最も古く伝統のあるウィーン大学で発表者だけで700名近く、会期中朝8時半から夕方19時まで同時並行でたくさんのセッションが開催され、またエクスカーションもたくさん用意されていました。
ウイーンと言えば、ハプスブルク家の華麗な宮廷生活が想起されます。18世紀のマリア・テレジアやマリー・アントワネット、それに19世紀後半の皇妃エリーザベトなどの皇室女性たちの波乱に満ちた人生は日本でも宝塚歌劇の題材となっていますし、その宮廷は博物館や美術館となって今も世界中の人々を惹きつけています。ウィーンは音楽の都としても有名で、モーツアルトもここで活躍しました。大きな劇場もあり、今も街のあちこちから音楽が流れてきます。今回の学会でもオープニング・セレモニーはバロックのメドレーで始まりました。![]()
しかし、ウィーンと聞いてビザンツを思い浮かべる人はまずいないでしょう。ところが、ウィーン大学にはビザンツと近代ギリシア専門の独立した図書館があります。市内を回る市電で市の北側に行くと、瀟洒な建物が建っています。事前に申請をする時間がなかったのですが、学会参加者は期間中自由に使うことができました。なぜこんなところにビザンツ専門の研究機関が存在しているのでしょうか。背景には、オーストリアとバルカン東欧との深く長い歴史的かかわりがあります。![]()
オーストリア(Austria, ドイツ語ではÖsterreich)というのは東方の国家(王国、帝国)という意味です。ヨーロッパの中央にあるのに「東方」とはこれいかにというところですが、ドイツ語圏やそれを含む西欧世界から見るとその東端に位置しています。中世初期には東方辺境伯領(marcha orientalis)と呼ばれていました。ナポレオン後のヨーロッパ秩序を裁定した宰相メッテルニヒは、自宅の玄関から東洋が始まると言ったと伝えられますが、オーストリアは西欧カトリック世界の東の前進基地で、その向こうには価値観も文化も全く異なる世界が広がっていたのです。東隣のハンガリー平原には古代からフン人、アヴァール人、マジャール人などの遊牧騎馬民族が侵入して各地に脅威を与え、その南にはビザンツの影響を受けた東方正教世界が広がり、セルビア、ブルガリア、ルーマニアといった諸国が形成されていきます。
オーストリアのハプスブルク家は、16世紀にカール五世がスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねてカトリック世界最大の勢力に発展しますが、当時バルカン半島全域を支配していたオスマン帝国の前には劣勢で、首都ウィーンが包囲されます。17世紀後半の第2次包囲を撃退してようやく優位に立ちますが、今度はバルカンの諸民族やロシアをはじめとする列強と対峙することになります。オーストリアはハンガリーを抱き込んで延命を図りますが、この政策はスラブ系の人々の反発をよけい強める結果となりました。ボスニア併合をめぐって対立するセルビアの青年による皇太子暗殺から第一次世界大戦が勃発したことはあまりにも有名で、オーストリア・ハンガリー帝国は解体していくことになります。
ドイツの影に隠れがちですが、このような歴史的背景もあって、オーストリアは学術面でもバルカン、中東諸地域とかかわりが深く、多くの考古学的発掘調査もなされています。上述の王宮跡の博物館群のちょうど真ん中にエフェソス遺跡や古代中世のパピルスを専門とする博物館もあります。学会参加者は無料で入ることができました。エフェソス関係では神殿のレリーフやアルテミス女神像があり、またパピルス博物館ではローマ時代のエジプトのコプト語写本のほか、イスラーム到来後のアラビア語写本などの展示を見ることができました。ここでは古代末期の生徒たちが単語を筆記して練習していた史料のみを挙げておきます。![]()
筆者の専門とする「古代末期」(die Spätantike;に英語圏でLate Antiquityと訳されて世界的に研究がさかんとなる)という学術用語が生まれたのも19世紀末のウィーンでした。「世紀末ウィーン」と言えばクリムトやエゴン・シーレといった画家やマーラーのような音楽家、それに精神分析学のフロイトなど天才の集う場所として有名ですが、アロイス・リーグル(Alois Riegl)という美術史家が古代末期(2-8世紀)の美術にはそれ以前の古典古代とも中世とも異なる独特の価値があるということを提唱し、これが現在に至る古代末期研究の最初の一歩となっています。
オーストリア・ハンガリー帝国といえば、民族主義と階級闘争、帝国主義列強の争いに翻弄され、あとは崩壊に向かうばかりの退嬰的な国家という印象がありますが、その最末期の首都でどの分野でも後の時代に残る価値のある試みがなされていたのはなぜでしょうか。その姿はビザンツ帝国にも重なります。右派的な視点からはビザンツの歴史的使命はイスラームやアラブ人の侵入を防ぐヨーロッパの防波堤となったということで、これは現在の移民排斥の言説につながります。もうひとつは千年にわたって異なる宗教や民族が共存する舞台であったという視点です。前者は論外として、後者の視点からビザンツの遺産を中欧でどう継承して未来に生かすか、これが今回の学会でのメインテーマであったように思います。
オーストリア一国だけ、ドイツ語圏だけでみるとウィーンはその東端にある不釣り合いに大きな都市ですが、東欧バルカン、それに中東を含めた政治、経済、文化の広がりのなかで考えると、その重要性は今も変わらない、どころか増しているように思えます。
さて、本題に入る前にずいぶんと長くなってしまいました。学会それ自体と私の発表については再度(その2)として報告します。![]()
