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研究・地域連携

伊勢参り「宝来講」

復刻版 宝来講 道中細見記

『復刻版 宝来講 道中細見記』は、1986年より奈良大学史学科の日本近世史ゼミを中心に行われている、徒歩による伊勢参り「宝来講」の行程とその成果を詳細に記した冊子で、実際に伊勢本街道を歩くための手引書として利用できるように、編集されています。
宝来講は、江戸時代の旅を再現し、データを収集・分析することにより、歴史学研究に生かすことを目的としています。
江戸時代、庶民の間で流行した伊勢参りを、当時と同じ行程で旧街道を忠実に辿って歩きます。奈良大学を出て、猿沢池畔より上街道を南下、初瀬・榛原を経て、伊勢本街道を東進し、峠を越えて伊勢神宮までの約130km、4泊5日の旅です。
『宝来講道中細見記』では、宝来講で通行している旧街道のルートや街道景観の案内を中心に、街道や集落に関する歴史的な研究成果や、江戸時代の旅や伊勢参りについての解説、道中でのエピソードなどを紹介しています。
1992年より3年間にわたって、史学科鎌田研究室で『宝来講道中細見記』を作成してきましたが、2002年奈良大学総合研究所から1994年版を復刻刊行いたしました。したがって、復刻版の内容は1994年時点のものですので、実用の際にはご注意ください。ここでは、この細見記を少しご紹介したいと思います。

道中へ持参すべき品々

『新撰伊勢道中細見記』に「道中へ持参すべき品々」の大略として、39品目があげられている。衣類、脇差、頭巾、三尺手拭のほか、硯、算盤、秤や髪結道具、蝋燭ならびに付木など当時の生活様式の縮図を見るおもいだが、中には綱三筋が含まれている。説明書きに物干し、荷物のまとめ用に使用するとあるが、これは現在の宝来講でも通用する、誠に重宝なアイテムである。 この「品々」には、宝来講でおなじみのひしゃくがない。路銀も準備も十分の、ごく一般的な参宮者を読者として考えていたからであろう。しかし、「おかげ参り」「抜け参り」のような、十分な準備のないままに出て行ったと思われる場合、何を持っていったのだろうか。 元禄11年、入野村(兵庫県龍野市)の「抜け参り」母子二人が、7日目に守口市で行き倒れた時の記録がある。これによると死亡者の遺品は、衣類のほかひしゃくと菅笠だけであった。これで六歳の娘と参宮に出たのであるからかなり無謀にも思えるが、沿道の施行で「抜け参り」でも旅は可能であった背景が存在する。その施行を受けるために持ち歩いたといわれるひしゃくは、ぎりぎり最低限の「持参すべき品」であったのである。

太一

大和など畿内の参宮常夜燈は、竿石に「太神宮」と刻むものが多いが、伊勢に入るとこれが「太一」となる。
「太一」は「大一」とも書き、伊勢神宮御用の印である。天照大神を示しているというが、詳細な由来は分かっていない。おそらくは「唯一神明造」の「唯一」などと同じように、他のものとは違う絶対の存在という意味なのであろう。神宮の遷宮の際も、御用材の伐り出し・運搬の各所で「大一」の幟が掲げられるし、遷宮の裏方・神宮工作所の職員が使用している作業帽やヘルメットにも、まるで徽章の如くに「太一」とある。

宝来講の夜

夕暮れが迫ってくる。具合よく宿場に着いた。「御隠居、宿はどこにとりましょう?」「うむ、どうしましょうかな」「どうせならかわい娘ちゃんがたくさんいて、めしがうまくて、たらふく食わしてくれる所がいいな」
そこへ客引き「ささ、うちへ泊まってっておくんなさいまし。めしはうまいものがたらふく、いい娘もいますぜ」「そうかい、御隠居ここにしましょう」「はっはっは、八兵衛にはかないませんな。それでは目印の笠を表に吊っておいてください」・・・
こういう気楽な旅を時代劇では描き続けてきた。しかし、実際に忠実に江戸時代のような旅をしてみると、宿での時間は意外とあわただしいものだと知らされる。
一方、そうした旅を現代にするがためのギャップというものもあり、これを埋めるためにも時間は費やされる。いったい黄門様はいつ洗濯をし、いつマメをつぶすのか、と疑問を抱きつつ、夜は過ぎていくのである。

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