奈良大学文学部史学科

平城京の役人の世界  1、平城京の人口

寺崎 保広



  七一〇年〜七八四年には、奈良は日本の都でした。平城京(へいじょうきょう)です。平城京は唐の都・長安城を手本として作られた人工的な都で、碁盤目状に道路が拡がる約五q四方の規模を持っていました。平城京の中央には、幅七〇mの南北道路・朱雀大路があり、これを境に東が左京、西が右京に分かれます。平城京の北端には平城宮(へいじょうきゅう)があり、都の中心部となります。今の皇居にあたる内裏(だいり)、国会議事堂にあたる朝堂院(ちょうどういん)、官庁街にあたる曹司(ぞうし)などが、一q四方の中に配置されていました。この宮に対して、南に拡がる京の街区には寺院や神社、市場などが置かれ、そのほかは役人たちの住居となっていました。(→平城京図)

▼平城宮
平城宮



▼平城京
平城京



   ここまで読んできて「あれ?」と思った人、いますか?「東が左京、西が右京」という部分です。私たちは小学校の頃から、地図を見るときは北を上にした図を見る習慣がついていますから、東は「左」ではなくて「右」ではないの?という疑問が出てきそうです。しかし、都の場合は、いま説明したように、平城京の北端に天皇がいて、天皇が南を向いたときの「右と左」の「京」という意味ですから、このままで間違っていないのです。

【二〇万人説】 さて、この平城京には何人の人々が住んでいたのでしょうか。かつて日本史の教科書には約二〇万人だと書いてありました。私が高校生の時にはそう習いました。ところが最近の教科書では一〇万人となっているようです。どちらが正しいのでしょうか。  二〇万人という説は、昭和の始め頃の数学者・沢田吾一(さわだごいち)という人が唱えたものです。その根拠はおおよそ三つあります。一つは、明治の始めの地方都市、金沢市の面積が平城京に近いので、その金沢市の当時の人口を参考にすること、第二に全国の人口に占める首都の人口の比率を計算すると、さまざまな地域や時代によってバラツキはあるのですが、おおよそでいえば三%になるので、奈良時代の全国の人口を推定しそれをもとに計算すること、第三に奈良時代末頃の古文書があって、そこには京内に住む八〇歳以上の一〇七六人に米を特別支給したとあるので、これを手がかりに、京の全人口を復元するというものでした。その結果、いずれの方法でも、平城京の人口が二〇〜二五万人になるというのです。

 ところが、戦後になって、沢田説では少し多すぎないか、という疑問が出されるようになりました。今の奈良市の人口は三五万人ですが面積は平城京よりもはるかに広いので、かつての平城京の範囲内に現在住んでいる人に限れば、とうてい二〇万人にはならないでしょう。となると、一三〇〇年前の平城京は、今の奈良市よりも人口密度が高かったと言えるのでしょうか?

 沢田の方法について検討してみると、第一と第二の根拠はそれほど有力とは思えません。明治初期の金沢市と古代の平城京の人口密度が同じくらいだったという保証はどこにもありませんから、面積がほぼ同じだといっても人口も一緒とは言えません。また、奈良時代の全国の人口も、沢田は六〇〇〜七〇〇万人と推定していますが、これはやや多すぎる数字で、最近の研究では四〇〇万人前後と見るべきなのです。

 ただし第三の方法だけは、かなり有効だと思います。つまり高齢者の人数から全人口を計算するために、古代の戸籍などを材料として年齢構成の比率を調べ、そこから逆算したもので、それなりに根拠となる数字です。ところが、問題なのは、どうもこの文書は恩恵を受けるために高齢者数を実際よりもかなり「水増し」して申請したらしいのです。そうなると、残念ながらこれも根拠にはできなくなります。

【一〇万人説】 そこで戦後になって、何人かの研究者が別の方法によって計算を仕直しました。その方法とは、平城京の全面積から、宮や寺院などを除き、人々の居住が可能な面積を計算し、それに一定面積当たりの居住者数を求めて、掛け合わせるというものです。それによると、居住可能面積は約一一〇〇町余(一町は一・五ヘクタール)ほどで、一町当たりの居住者数は発掘のデータや役人の位階別宅地面積などから計算します。研究者によって結論に少し違いが出ますが、おおよそ一〇万人前後という結論がだされました。これが現在の教科書に反映しているというわけです。

 しかし、私自身はもう少し少なくて、五〜六万人ほどではないかと思っています。理由の一つは一〇万人説の問題点として、居住可能な土地にくまなく人が住んでいたという前提での計算であるということです。発掘の事例を見ると、同じ場所で建物が何度か建て替えられているのですが、奈良時代を通じてずーっと存続しているわけではなくて、断続的だからです。つまり、ある時点での平城京の光景を考えると、かなり空き地が目立っていたと見られるのです。したがって、一〇万人よりはかなり少なく見積もるべきだと思います。

 もう一つの理由は、京の住民の中でかなりの割合を占めるのが下級官人ですが、彼らの多くは家族とは同居していないと考えるからです。家族は田舎に住んで農業を営んでいて、ほとんどの下級官人は「単身赴任」だったと考えています。

 以上のような理由から、私は平城京の人口を五〜六万人程度と推定します。そうだとすると、下級官人が一〜二万人で、そのほかにも役所で雑用にあたる人数を考えると、都市住民のうちの多くは何らかの形で役所に関わりをもっており、商人や職人などの庶民が極めて少ないことになります。つまり、人口構成から見て、経済的な都市というよりは政治的都市の色彩がはっきりと見られます。それだからこそ、ひとたび都が京都に移ると、住民の大半が移住することになり、平城京はたちまち廃れ、かつての都はほどなく田んぼにかわっていったのでしょう。

  
(寺崎保広)     

平城京の役人の世界  2、位階と官職



【肩 書】 現代のサラリーマンを想像してみてください。会社での地位をあらわす「総務課長補佐」などという肩書(かたがき)があるでしょう。また、若い皆さんは知らないかもしれませんが、これとは別にその地位に対応する「四級十二号俸」といった「等級号俸(とうきゅうごうほう)」というのがあります。簡単に言えば、課長補佐ならば四級、本人の勤務年数によって十二号俸、というように等級号俸が決められ、それによって給料の金額が決まっているのです。そして、ちょうどこの「肩書」と「等級号俸」に近い古代の制度が「官職(かんしょく)」と「位階(いかい)」というものです。

 まず、官職から説明していきましょう。平城京には「二官八省一台五衛府」と総称されるたくさんの役所があって、仕事を分担していました(→官職表)。

▼官職表
官職表



その一つの役所の中のメンバー構成はというと、「カミ」「スケ」「ジョウ」「サカン」と呼ばれる「四等官(しとうかん)」が中心で、これが今で言えば「部長」「次長」「課長」「係長」といった管理職に相当すると言えばわかりやすいと思います。その下に「史生(ししょう)」以下、様々な役目の者が配属されていました。一つの役所を例に具体的に見てみましょう。役人の人事や宮廷の礼儀などを担当する式部省の構成員を示すと、次の通りです。

 式部卿(しきぶのかみ)一人、式部大輔(だいすけ)一人、式部少輔(しょうすけ)一人、式部大丞(だいじょう)二人、
 式部少丞(しょう じょう)二人、式部大録(だいさかん)一人、式部少録(しょうさかん)三人、史生二〇人、省掌(しょう
 じょう)二人、使部(つかいべ) 八〇人、直丁(じきてい)五人。

 式部省は重要な役所なので、四等官が四人ではなくスケ以下は「大・少」に別れて、合計一一人にのぼります。史生というのがいわば「ヒラ」の事務官で、省掌がその補佐、使部が史生の指示にしたがって動く実働部隊で、身分的には役人見習といえます。最後の直丁だけは役人ではなく、一般人の中から集められて雑用にあたり、これらを合計すると一二〇人ほどとなります。役所によって人数の多少はかなり異なります。ここであげた「式部卿」とか「式部大録」というのが、式部省の中での役割であるとともに本人の肩書にあたりますが、それを古代では「官職」と言いました。

 次に「位階」の説明にうつります。これは「正一位(しょういちい)」から始まって「従一位(じゅいちい)」「正二位」…と下がり、最下位は「少初位下(しょうそいのげ)」まで、合計三〇階のランクがありました。現代の等級号俸に近いといったのは、古代の役人の給料は、この位階によって決められていたからです。

 ところが、古代と現代の制度には大きな違いがありました。簡単にいえば、給料のもらい方です。現代では、「肩書」があり、それに対応する「等級号俸」があり給料が決まる、というように仕事に見合う金額が定まっていますが、古代はそうではありません。位階と官職の説明をしましたが、官職と位階は必ずしも対応しません。その上で、役人の給料は位階によって決まります。つまり、「どのような官職についているか」に関係なく「その人が何位の位階をもっているか」によって給料が決まってしまうのです。少し結論を急ぎすぎました。改めて説明しましょう。

【官位相当】 古代の位階と官職とは別の制度と見るべきなのです。位階は、官人世界の中での個人の序列を示しています。一方、官職は、仕事の役割分担です。この二つは「官位相当」という形でつながっているのです。官位相当とは「官職と位階は相当する」という意味ですが、実際には「ある役人が何位の位階をもっていれば、官職としてはおおよそこのポストが相応しい」という「目安」に過ぎません。

 例をあげましょう(→官位相当表)。ある役人が「従五位下」の位階をもっていたとします。その場合、各役所ではどれくらいの官職に相当するかと言えば、神祇官(じんぎかん)ならば「大副(だいすけ)」、式部省などの八省ならば「少輔(しょうすけ)」、陰陽寮(おんみょうりょう)という役所ならば「頭(かみ)」、国司ならば「守(かみ)」が匹敵する、という一覧が大宝律令の中に規定されています。つまり小さい役所ではカミ(長官)、大きい役所ではスケ(次官)クラスだ、というわけです。ところが、これはあくまでも「目安」であって、実際に彼が陰陽寮に勤務することになっても、カミの空きがないので、しばらくスケに止めおかれる、といったケースは決して珍しくありません。ところが、彼がカミとして仕事をしてもスケであっても、給料は変わりません。「従五位下」の位階でもらうからです。今ならば、会社の部長でも課長でも給料は関係ないことになります。私ならば「同じ給料がもらえるなら、責任のないポストがいいなあ」と思ってしまいます。

▼官位相当表
官位相当表



 その極端な例があります。たまたま、役人数と官職の定員との関係で、ポストにあぶれるケースが考えられます。今なら仕事がなければ「リストラ」されますが、古代の役人の世界ではそうではありません。位階をもっていながらたまたま官職がない人を「散位(さんい)」といい、彼らはれっきとした役人なのです。彼らは毎日「散位寮」に勤務しますが、仕事がないので日中はブラブラして、夕方に帰宅します。それでも、散位の人たちは位階をもっていますから、給料は満額もらえるのです。うらやましい!

 このように見てくると、古代の役人の世界では、「官職」よりも「位階」の方が優先していたことがわかります。例として一人の役人の正式肩書を書いてみましょう。

  「従四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士菅野朝臣真道」
 氏名:菅野朝臣真道(すがののあそんまみち)
 位階:従四位下(じゅしいのげ)
 官職:民部大輔(みんぶのだいすけ)&左兵衛督(さひょうえのかみ)&皇太子学士(こうたいしがくし)

となります。位階が最初にくるのは、それがもっとも重要だからです。位階と官職の間に「行(ぎょう)」という文字がありますが、これは「官位相当しない」という意味です。彼のついている官職「民部大輔」は「正五位下」相当のポストなので、自分の位階よりはやや低い官職についていることを示すのが「行」で、逆の場合は「守(しゅ)」という字が入ります。彼が無能だったから冷遇されたわけではありません。左兵衛府の長官と皇太子の教育係も兼ねるほど優秀です。たまたまズレが生じただけと見るべきでしょう。

 少々細かい話になりましたが、古代の役人にとって、最も大事なことは「位階」である、ということを確認して、先に進みましょう。
  
(寺崎保広)     

平城京の役人の世界  3、五位のカベ



   この頃の わが恋力(こいちから) 記(しるし)し集(つ)め 功(くう)に申さば 五位の冠(かがふり)

  これは万葉集(巻第一六)に載っている恋愛の歌です。「このごろのあなたに対する私の恋の力は大変なものです。その恋ごころを記録として集めて勤務評定(きんむひょうてい)をしてもらったならば、おそらく五位の冠をもらうことができるでしょう」という意味です。ここでは、この歌を材料にしながら「位階」についてもう少し説明してみましょう。

【考課と選叙】 まず第一に注目したいのは、「勤務評定」をするという点です。意外かもしれませんが、奈良時代の役人は毎年、自分が所属する役所の長官から勤務評定(これを「考課(こうか)」といいます)をうけていました。年間の勤務日数が合計して何日、その間に行った仕事がこれこれで、総合して「中上」とか、「中中」といった評価が下されたのです。評価のされ方は、おおよそ常勤職員は九段階評価(上上〜下下)、非常勤職員が三段階評価(上・中・下)でした。

いつの時代も同じですが、人が人を評価するというのはとても難しいことです。学校の成績が良い人・スポーツができる人・性格が良い人の三人がいたとして、「誰が優れているか?」を簡単に決めることはできないでしょう?、しかも評価する人の好みとか、個人的な関係があるかないか、といったことも混じってくると、ますます評価の「客観性」が難しくなります。

 古代でも、そうした苦労があったようで、役人の勤務評定にあたって、長官の個人的な判断が入り込まないように、評価するときのポイントを決めていました。「人徳があること」「潔癖であること」「公平であること」「真面目であること」の役人としての資質(ししつ)4ポイント、それと役人がいまやっている仕事上のポイント(陰陽師(おんみょうじ)であれば「まじないが上手なこと」など)が1つ、の合計5ポイントから何点とれるかで、評価が決まっていました。1ポイントなら「中中」、2ポイントで「中上」…といった具合です。規則はそうなっていましたが、実際はどうだったのでしょうか?

このような毎年の考課を積み重ねると、四〜六年に一回の割合で昇進の機会がめぐってきます。たとえば、四年間全て「中中」だったとすると、その人は翌年に位階が一つ上がり、四年全て「中上」であれば三階上がって、給料が少し増えるという仕組みでした。毎年の「考課」に対して、位階が昇進することを「選叙(せんじょ)」といいます。

 右に説明したようなことが大宝律令に細かく書いてあります。一三〇〇年も前にそんなことが実際にちゃんと行われたのだろうか?という疑問があるかも知れませんが、平城宮跡から発掘された木簡(もっかん)の中に勤務評定のことを書いたものがあって、実施されていたことが確かめられました。例をあげましょう。

    A 下等 兵部省使部従八位下………… 年六十 右京 上日百……

    B 少初位下高屋連家麻呂 年五十 右京 六考日并千九十九 六年中

  Aの木簡は、毎年の考課の木簡です。「……」のところは墨が薄くなっていて読めません。「下等」とは、この年の評価が三段階の「下」だったことを示し、兵部省使部(ひょうぶしょうのつかいべ)である従八位下の……(人名)、年齢六十歳、右京に住み、一年間の出勤日数(上日・じょうじつ)が百……日であったことがわかります。いちど「下」を取ってしまうと昇進は絶望的で、年老いた彼がその後どうなったのか、ちょっと心配になってしまいます。

 Bは、選叙の木簡です。少初位下の高屋連家麻呂(たかやのむらじやかまろ)、年齢五十歳、右京に住む。この六年間の出勤日の合計が一〇九九日で、その間の評価が毎年「中」だったことを示します。彼は規定によれば翌年に一階あがって「少初位上」になったはずです。

 このような役人一人ごとに、考課と選叙の木簡が作られていたことが多数の木簡からわかり、細かくて厳密な作業が実際に行われていたことが確かめられたのです。

【給料の違い】 さきの歌のもう一つのキーワードは「五位の冠」です。冠とは位階のことを指します。平城京にどれくらいの役人が住んでいたかということは実は問題なのですが、ひとまず一万人前後としておきます。その役人は全て、位階によって序列が決まっていました。位階が「正一位」から「少初位下」まで合計三〇階あること、役人たちは自分の位階に相応しい官職につき、給料も位階に応じてもらえることは2節で述べました。では、当時の位階ごとの違いとはどのようなものだったのでしょうか。

 まず、役人の給料を比べてみます。当時の給料は、お金ではなくて、布・綿・鉄などでもらいました。それは、公民(こうみん)から集められる租庸調(そようちょう)といった税がお金ではなくて、様々な品物だったからです。和同開珎などの銭が発行されたとはいえ、お金はまだ全国的に流通していませんでした。ですから、全国から都に納められた税の品物が、そのままの形で役人の給料として支給されたのです。役人から見れば、鍬(くわ)とか鉄をもらっても困るでしょうが、そのために平城京に設置された公設市場が「東西市」なのです。つまり、市に鍬や鉄などを持ち込んで、野菜や魚などを買って生活していたのでしょう。

 ともかく、役人が位階に応じて一年間にもらった給料の品々と、それら全部を米に換算して合計した量を示し、さらに大体の見当をつけるために、現在の米価を掛け合わせて年収を円に推計してみました(→表:役人の給料)

▼役人の給料
役人の給料



 これによると、三位以上、今でいえば大臣クラスは年収一億円を超えます。四位で四、五千万円、五位で二千万円ほど、そして六位になると、ガタっと下がって一六五万円しかありません。最下位の少初位下で六〇万円となります。つまり、五位と六位の間に決定的な断絶があるのです。「六位以下の年収では暮らしていけるのかしら?」と思うかも知れませんが、彼らはちゃんと口分田をもらい、税金を免除され、その上で少ないとはいえ給料をもらうのですから、公民に比べれば、はるかに恵まれた地位ではありました。ご心配なく。

 給料だけではなく、役人としての様々な面で、五位以上は特権が認められていました。そして、本来「貴族」とは彼らを指した言葉なのです。これに対して六位以下には、当時の適切な用語がないので、「下級官人」と称しています。貴族と下級官人の待遇の違いをいくつか紹介してみましょう。たとえば、仕事をするときに、貴族は机とイスでしますが、下級官人は床(ゆか)に敷物をしいた上で、となります。また、交替で役所に宿直をすることになっていますが、貴族は免除されました。さらに、軽犯罪を犯した場合、貴族はお金を払って執行猶予ということができますが、下級官人には認められません。このように、一事が万事、五位以上かどうかで分かれるのです。

 下級官人が一〜二万人くらいだと述べましたが、五位以上の貴族はというと、おおよそ一〇〇〜二〇〇人ほどの一握りの人たちにすぎませんでした。

【五位昇進】 ですから、当時の役人たちは何とかまじめに働いて、位階を昇進させることを目指しました。しかし、無位(むい・まだ位階のない地位)からスタートして、順調に出世したとしても、定年までにはとうてい五位には到達しませんでした。かりに、非常に優秀で勤勉な仕事ぶりで正六位上まで昇進した下級官人がいたとします。彼がその後の数年間もしっかりと考課を重ねて選叙をむかえるとどうなるか?実は、六位から五位に上がるときには、先に説明した昇進の計算方式は適用されません。そこでは「五位の仲間入りにふさしいかどうか」という個別の審査があって、これに通らないと五位にはなれませんでした。そして、その審査では「家柄(いえがら)」が問題で、家柄が良くない人にとっては、非常にハードルが高かったのです。

 では、どういう人が五位の位をもらえるかというと「親の七光り」です。五位以上の貴族の子供は最初に役所に勤める時に、何の実績も能力もなくとも、七位とか八位という途中からスタートできるのです。これが「蔭位(おんい)」と言う特権です。無位からスタートする人と違って若くして六位に到達し、いずれは五位以上にのぼってゆく、つまり、家柄の良い者がうまく再生産される仕組みだったのです。

 こうなると、「親の七光り」のない下級官人にとっては、「五位」というのは現実にはとうてい実現できない夢のような地位だったのです。この節の最初にあげた万葉歌を歌った人はおそらくは下級官人で、自らの境遇を嘆きつつ、恋人に対して、「これほどあなたを想っている」という強いたとえとして「五位の冠」を持ち出したにちがいありません。ー 役人の悲哀を感じませんか?
  
(寺崎保広)     

平城京の役人の世界  4、官人の生活



【宅地班給】 平城京の住民の多くは役人たちであると言いましたが、彼らは毎日、平城宮にある自分の役所に通勤するために、近くに住む必要があったわけです。早朝早くに家を出て、平城宮まで歩き、門が開くといっせいに朝堂院や曹司に向かい仕事にかかりました。そのために、役人たちに対しては、国家から平城京内に土地が支給されました。これを宅地班給(たくちはんきゅう)といいます。そうすると、役人たちは、どの場所に、どれくらいの広さの土地をもらったのか、が問題となります。平城京の前の藤原京については、役人の位階ごとにもらえる宅地の広さが決められていたことが『日本書紀』に書いてあります。当然、平城京でも位階の序列にしたがった班給がおこなわれたはずですが、その基準については史料に明記されていません。そこで、この平城京の宅地班給の基準がどのようなものであったか、を解明するためにいくつかの研究が積み重ねられています。

  たとえば、奈良時代の有名人が平城京のどのあたりに住んでいたのかがわかる例がいくつかあります。発掘で明らかになった長屋王の邸宅は、「左京三条二坊」という一画に四町の広さでした。ここで住居表示の仕方も説明しておきましょう。

 平城京は条坊道路によって区画されていますが、その呼称は、「左京三条二坊」ならば、左京の三条大路と二坊大路の内側ということで、条坊模式図のようになります。これが「一坊」で四周が大路で囲まれた一辺約五三〇mの広さです。この坊が一六等分され、その一つ分が「一町」で、その広さは、道路に取られる分を除くと、一五〇〇〇平方メートル(約五〇〇〇坪)ほどになります。長屋王宅は、左京三条二坊のうちの西北四分の一を占めていて、今で言えば二万坪という広大な敷地となります。

▼平城京の坪割1
平城京の坪割1


▼平城京の坪割2
平城京の坪割2


  長屋王以外では、藤原不比等(ふじわらのふひと)の宅地は後に娘の光明皇后の意向で法華寺となりますから左京二条二坊のあたり、不比等の孫で奈良時代後半に絶大な権力を握った藤原仲麻呂の宅地は左京四条二坊の東半分、新田部親王(にいたべしんのう)の宅地はその死後に鑑真の寺である唐招提寺となりますから右京五条二坊の北部、といったいくつかの場所がわかります。いずれもトップクラスの人物ですから、支給された土地の面積も広く、また平城宮に比較的近い所にあることがわかるでしょう。

 これに対して、下級官人の宅地はどちらかといえば、平城京の南の方に多く集まっていました。なぜわかるかと言えば、正倉院にある文書に彼らの借金証文がいくつか残っているからです。正倉院文書はまた別の機会に説明しますが、ひとことで言えば、東大寺の事務所で写経事業が行なわれ、そこに参加した下級官人たちの様々なメモ類が偶然にも保存されていたものです。

借金証文によれば、従八位上の大宅童子(おおやけのどうじ)は左京八条三坊に「十六分之一」の土地をもっており、少初位下の山部針間麻呂(やまべのはりままろ)は左京八条四坊に「十六分之半」の土地があり、それを「質(しち)」として事務所に給料の前借りを申し込んでいるのです。こうした史料によると、当時の下級官人たちは平城宮よりも遠い所に多く住んでいて、その宅地の面積もわかります。「十六分之一」とは一町の一六分の一つまり三〇〇坪ほどとなり、「十六分之半」とはその半分という意味です。

   こうした例から総合的に判断すると、平城京の宅地班給は、おおよそ次のような基準にもとづいて実施されたようです。つまり、五位以上の貴族は平城宮に近い五条大路よりも北に宅地をもらい、その面積は一町以上であった。一方、下級官人はより遠い南の坊に集中し、その面積は一六分の一町が基準で、それより狭い場合もあった、と。そして、この考えは、発掘調査によっても裏付けられています。つまり、これまで調査された平城京の発掘で、一町以上の広い敷地をもった宅地は、例外なく五条大路よりも北にあり、そこから南にゆくにしたがって狭い宅地が確認されているのです。

 南のはずれに住む下級官人は、夜明け前に起きて一時間以上も歩いて平城宮に通ったのですが、長屋王や藤原不比等は寝坊しても間に合う距離に広大な敷地をもらっていたわけです。このように、位階による役人の序列は、その住まいにもはっきりと表れていました。

【勤務の実態】 役人たちは毎年勤務評定をうけていたこと、そこでは出勤日数と勤務内容がチェックされたことを述べました。ここでは出勤日数について補足します。

 一年約三六〇日(当時は陰暦ですから三六五日ではありません)のうち、出勤しなければならない日数が、律令に定められています。常勤職員は二四〇日以上、非常勤職員は一四〇日以上、貴族の屋敷内で働くトネリと呼ばれる人たちは二〇〇日以上、となっています。実際にはどうだったのでしょうか。

 これも木簡が発見されるにつれて、様々なデータが増えて、その実態がわかってきました。長屋王家で舎人(とねり)として働いた出雲臣安麻呂(いずものおみやすまろ)という人の勤務評定の木簡が、長屋王宅で発見されました。それが次ぎの一点です。

     C  無位出雲臣安麻呂 年廿九 山背国乙当郡 上日 日三百廿 夕百八十五 并五百五


▼「出雲臣安麻呂」木簡と山背国愛宕郡計帳(正倉院宝物)
「出雲臣安麻呂」木簡と山背国愛宕郡計帳(正倉院宝物)


     彼はトネリですが、まだ位階がないので「無位」という地位です。年齢二十九歳、山背国乙当郡(やましろのくにおたぎぐん=山城国愛宕郡、今の京都市の一部)出身。一年間の上日(出勤日数)が「日勤」が三二〇日で、「夜勤」が一八五日、合計五〇五日というものです。木簡は上端が折れているのでわかりませんが、上の部分に評価「上・中・下」が書き込まれたのでしょう。

トネリは「住み込み」で勤務するためでしょうか、夜勤まで記録されました。それにしても、ほとんど休みなく働きづめのようです。これだけ一所懸命に働いた安麻呂はその後、どのような人生を送ったのでしょうか。普通は名もない人についてが何もわからないのですが、彼は偶然にも、もう一度史料に顔を出します。正倉院に残る戸籍・計帳の「計帳」に登場するのです。神亀三年の山背国愛宕郡計帳に「大初位下、北宮帳内、四十二歳」と見えます。神亀三年は七二六年で、年齢から計算すると木簡の一三年後となり、「北宮帳内(きたみやのとねり)」とは長屋王家のトネリということです。時に彼は「大初位下」の位階をもちながら、長屋王家で働き続けていたわけです。あれだけハードな働きをしながら、わずかに三階しか位階があがっていないことがわかりました。

出雲臣安麻呂の待遇は例外ではありません。長屋王家の他のトネリの勤務状況も彼と変わりはありませんし、一三年で三階昇進というのも平均的なのかも知れません。また、長屋王家だけでなく、正倉院文書の写経所で働く下級官人たちも同様です。やはり、連日の勤務を続けていました。そうなると、律令の規定でいうトネリは二〇〇日以上という上日数はあくまでも最低限度を示しているだけであって、実際には下級官人は規定をはるかに超えて働いているのが普通だったのでしょう。さきにあげたAの木簡で、「下」と評価された兵部省の官人は、非常勤なので一四〇日以上という条件はクリアしたけれど、二〇〇日にも満たなかったわけで、そのために厳しい評価を受けたのかも知れません。

【休暇と病気】 木簡とともに正倉院文書からも下級官人の実態がわかるのだという話をしましたが、もう少しその点を述べましょう。東大寺で写経をする下級官人(写経生)の書いた「休暇願」の文書がやはり正倉院に残っています。たとえば、次のようなもの。

 三嶋子公(みしまのこきみ)、解(げ)し申す、暇(か)を請(こ)う事。合わせて三か日。右、下痢(げり)となるによりて、件の暇、請うところ、前のごとし。もって解す。(三嶋子公が申し上げます。休暇の申し込みについて。合計三日。右のことについては、下痢が止まらないので、休暇を請求する次第です。以上申し上げます)

といった内容です。こうした休暇願が二〇〇通以上もあるために、そのデータを集計すると、奈良時代の下級官人はどのような理由で休みをとっていたのか、病気の場合はどのような病気か、休みの頻度はどれくらいか、といったことがきわめて具体的にわかるのです。

 ここでは、研究の成果をまとめた一覧表を示しておくにとどめましょう。休暇の理由として最も多いのは本人の病気で、それに次ぐのは仕事の切れ目です。これは写経という仕事の性質を反映しているのかも知れません。ほかに「神祭・仏事」といった項目があり、これは自分の村に帰って氏神のまつりや法事に参加するというもので、彼らは都市に住みながらもまだ田舎とのつながりが強かったことを示しています。病気の中では、下痢・赤痢が最も多く、足病、瘡腫(できもの)・腹病などがそれに次ぐことがわかります。衛生環境がかなり悪かったことと、写経という座ったままで長時間仕事をするための職業病が多いように思います。

▼休暇(退家)請求の理由
休暇請求の理由



▼写経生本人の病気の内訳
写経生本人の病気の内訳



 このような劣悪な条件の下で、ひたすら仕事にはげんでいた姿が思い浮かびますが、それでも生活は決して楽ではなく、さきほど例にあげたような借金証文がいくつかあり、しかも一人の官人が借りては返し、また借りては返すという「自転車操業」をしながら何とか暮らしをしていた場合があって、身につまされるような実例です。

 そうした下級官人たちの「待遇改善要求書」というものが一点だけ残っているので、この節の最後に紹介しましょう。要求項目は以下の六つです。

▼待遇改善要求書
待遇改善要求書


 その一、写経生の新規採用をしばらく見合わせて欲しい。我々の仕事が減るから。その二、去年、作業服が支給されたが、何度洗っても臭いので、新しいのを支給して欲しい。その三、一カ月に五日ほどの休暇を認めて欲しい。その四、仕事中に出される食事がまずいので、せめて中程度のものにして欲しい。その五、毎日机に向かって写経していると胸が痛み足がしびれる。だから薬として三日に一度、酒を支給して欲しい。その六、以前は間食用に麦が支給されたが、最近は中断している。是非、これを復活して欲しい。

 なかなか切実な要求で、私も「その五」については全く同感です。もっとも、これは役所に正式に提出されたものではないようです。おそらく、下級官人たちが休憩中の冗談話をイタズラで書き留めたものと考えられます。しかし、だからこそ彼らの気持ちとその環境がよくわかるような文章になっているのではないでしょうか。

  
(寺崎保広)     

平城京の役人の世界 5、官人の群像



 最後に、ここまで述べてきたことをふまえて、具体的な三人の役人の歩みを紹介して見ましょう。取り上げるのは上 馬養(かみのうまかい)・石川年足(いしかわのとしたり)・藤原豊成(ふじわらのとよなり)の三人で、藤原豊成は藤原仲麻呂の兄にあたりますが、いずれもあまり知られてはいない人物です。

【モーレツ事務官の出世】 上 馬養。七一八年の生まれ、七三九年以前に東大寺の写経所につとめ「校生(こうせい)」となる。七五〇年ようやく無位から「少初位下」の位階を得て、写経用紙の出納などにあたる。七五九年従八位下で、このころ「案主(あんず)」という地位につく。七六五年に正八位下だったが、七七〇年には正六位下にまで昇進した。七七四年正六位上で「造東大寺司主典(ぞうとうだいじしのさかん)」に抜擢される。七七六年以後の消息不明。

 彼は、名もない下級官人の一人でした。最初につとめた東大寺写経所の「校生」というのは、写経した文字に間違いがないかどうかをチェックする「校正」をする人のことです。写経生は字がうまくないといけないので、写経生を募集するときにはテストがあります。「試字(しじ)」といわれるお経の数行を試し書きした紙を提出し、その出来によって三つに区分されました。最も字の上手な人は「題師(だいし)」といって、お経の題(タイトル)だけを専門に書く仕事につき、次ぎにうまい人が「写経生(しゃきょうせい)」として本文の写経にあたります。そして字がうまくないと判断されると、「校生」となり写経生の写したお経の間違い探しに回されたのです。つまり、馬養はあまり字が上手ではなかったわけです。

 しかし彼は事務能力が非常に高かったようです。そのためにやがて「案主」として写経事業の手配役に就任できたのでしょう。それにしても七六五年から七七〇年までの位階の昇進が異常です。これはおそらく、七六四年におこった藤原仲麻呂の乱の前後の政治的混乱があって、その中で彼は「反仲麻呂派」についたために運が良かったのだと思います。そしてついに正六位上で造東大寺司主典にまで上りつめました。この官職は東大寺の事務局のサカンであり、ノンキャリアとしては全く異例の出世といっていいものです。位階もいよいよ貴族まで「リーチ」となりました。しかし、消息がわかるのは七七六年までで、ついに従五位下にはなれませんでした。

 つまり、上 馬養は下級官人としては、きわめて有能で、政局もうまく立ち回り、異例の出世をしながら、最後は家柄のカベを突破できなかった典型的な人物だったのです。

【長生き貴族の念願】 石川年足。六八八年の生まれ。七一〇年ころから官人となり、中央の下級官や地方官を転々とする。七三六年従五位下に昇進し、出雲守(いずものかみ)として赴任して善政をほめられた。その後も順調に昇進し、七四九年には従四位下で、式部卿・紫微大弼(しびのだいすけ)・参議(さんぎ)となる。七五八年に正三位となり、七六二年に七四歳で亡くなった。

 石川氏というのは蘇我氏の末裔(まつえい)で、かつては栄光を誇っていたが大化改新以降には少し弱体化していました。奈良時代では、なんとか五位以上にはなれるが、それ以上には行けない中流貴族といったランクでした。このクラスの氏の次の目標はと言えば「公卿(くぎょう)」になること、具体的には「参議」以上の官職につくか、または三位以上の位階を得るか、ということです。それまでの石川氏は公卿の一歩手前まで行きながら、そこで終わる官人ばかりで、公卿は氏全体の念願だったようです。

 さて、その石川氏のホープが年足です。平城遷都前後から官人として勤め始め、さまざまな官職を経て、七三五年に四八歳で五位に到達し、さらに実績を重ねて順調に地位をあげていきました。そしてついに七四九年、六二歳で念願の参議となりました。石川氏としての「快挙」と喜ばれたのでしょうね。これは年足の実力と実績によるもので、何も文句のつけようがありません。ただし、一つ気になるのは同じ時に兼務した「紫微大弼」という官職です。これは着々と力を発揮しつつあった紫微令(しびれい)・藤原仲麻呂の次官なのです。つまり石川年足は完全な「仲麻呂派」であって、実力者・仲麻呂に取り入ることによって晩年になんとか参議に滑り込んだという感じがします。彼は七四歳まで長生きしますが、七六二年に亡くなったのはある意味で幸せだったと思います。もう二年長生きしていれば仲麻呂の乱に遭遇(そうぐう)し、そうなるとタダでは済まなかったでしょうから。

【高級貴族の跡取り息子】 藤原豊成。七〇四年の生まれ。七二三年に正六位下で、翌年に二一歳で従五位下にのぼる。七三七年には従四位下で参議、七四三年には従三位で中納言、七四八年には従二位で大納言、七四九年に右大臣となる。七五七年に弟の仲麻呂と対立して大宰府(だざいふ)に左遷されたが、七六四年に従一位で右大臣に復帰し、翌年に亡くなった。 彼はエリート中のエリートです。祖父が律令国家の基礎をつくった藤原不比等、父はその嫡男でやはり政府のトップに立った藤原武智麻呂(むちまろ)で、その長男として生まれました。二〇歳で正六位下からスタートし、二一歳で早くも五位を突破したのも、毛並みの良さ以外の何ものでもありません。しかし、かれはどうもボンボンで、性格も穏やか、役人としては凡庸だったようです。それに引き替え、弟の仲麻呂は若いうちから光っていたのでしょう。よくいますよね、そういう兄弟。

 異変がおこったのは七三七年、この年に大流行した天然痘(てんねんとう)の病によって、政府首班の父が急死し、三人の叔父たちも一挙に亡くなってしまいます。これは藤原氏にとっての大打撃で、若い豊成が一族全体を引っ張らなければならない立場となりました。そのため、三四歳で参議として公卿の仲間入りしました。以後、着々と地位は上がりますが、自身の能力があまりないのと、後を追うように仲麻呂が実力を発揮してくると、居心地も悪かったのでしょう。七五七年には弟によって左遷され、弟が失脚すると元の地位に復帰しますが、翌年には亡くなってしまいます。彼の歩みをみると、生まれながらのエリートも適性がないと、かえって気の毒な気がします。典型的な高級貴族の例として紹介しました。

 以上の三人と、最も一般的な下級官人として出雲安麻呂も加えて、年齢と位階の昇進状況の図を作りましたので、参考にしてください。役人の世界の階層の差が一目瞭然ではないでしょうか。

▼役人の昇進状況
役人の昇進状況



  
(寺崎保広)